それはある朝突然起きた。
血相を変えた客が事務所に飛び込んできた。当然の如く誰も顔を上げない。いわんや、応対をやである。

「す、すみません。A先生はおられますか」
奥にいた先生は「おお。その声は遠山さん。入りなさい」と答えた。
遠山さんは滑り込むように先生の部屋に入っていった。今日のお茶当番は私だった。
お茶の準備をしているとヒソヒソと遠山氏の話す声が聞こえる。どうやら、税務署が会社に入るらしかった。

そして、やおらドンと机を叩く音と共にA先生の荒々しい声がした。
「あんたは人に相談に来るのに手ぶらなのか」
一瞬、私は耳を疑った。
「で、でも、先生。毎月、顧問報酬を払っているじゃないですか」と狼狽した遠山さんの声が聞こえた。
「それはそれだ。あんたも子供じゃないんだからその辺の常識位、弁えないと。とにかくただじゃ相談に乗る訳にもいかんよ」と怒気もアラワに顔を真っ赤にして叫んでいた。

遠山氏は慌てて事務所を飛び出し、数時間後、茶封筒を持って再度現れた。先生の部屋からかさかさと封を開ける音がした。数秒の沈黙が流れた後、
「きっと、ビール券よ」と原さんが言った(後日、事務所員皆で確認。その通りだった)。

「ふん」と先生は言った後、その相談の内容でこれっぽっちかと言うニュアンスを含んだ嫌味を言っている。
居たたまれない遠山氏は再度事務所を後にし、数時間後、今度は分厚い茶封筒を持って現れた。
「今度は現金よ」と再度原さんが言った(後日、・・・。以下同文)。

「あー。原さん。ちょっとこっちへ。遠山さんや、その件については原さんと打ち合わせなさい。私はそれからだ」と言う。
「そりゃ。そうよね。相談なんか持ち掛けられても先生はなぁーーんにも知らないんだからね」と定岡さんはひそひそ。
「でも、原さんも災難ですよね。遠山さんが来た時、たまたま原さんしかこの事務所にいなくて1番最初に対応しちゃったもんだから、自動的に担当者になっちゃったんですよね」と珍しく江川さんが口を開いた。

ここに来て初めて私はどうして皆が来客があっても知らん振りしていたのかを知った。
現在、それぞれが抱えている客だけでも残業の日々で、しかもその手当ては出ない。それなのに、これ以上、担当先が増えてたまるかというのが彼女達の本音だった。

その上、肝心のA先生は会計に関してズブの素人だから彼女達の責任は他の会計事務所より遥かに重く、範囲も広いのである。

彼女達が賃金カットの憂き目を見てもそれでも他の会計事務所員よりもかなりの給料を貰っていることは確かではあるのだが・・・。

不満だらけのこの事務所に彼女達が残っているのはこの40〜50代の年齢では今の給料は貰えないと認識していたからでもある。また、先生が会計の知識を全く持っていないことも彼女達にとっては好都合なことであるらしかった。

他方、A先生は高いながらも経験豊富な会計事務員を雇うことによって、無知でも税理士事務所を開業できたのである。男の事務員を雇うよりも女性は安くても正確に仕事をするから、女性でしかも経験豊富な人材しか雇わないのである。

ここに持ちつ持たれつの関係が成立しているわけであった。

結局、A先生は終始登場することなく、遠山氏は税務署の対応から調査の立ち会いまで全てを原さんとB先生の三人ですることとなった。

それから数日後、先生は原さんと一緒に遠山さんの会社の税務調査が終わった打ち上げに呼ばれていそいそと出掛けて行った。

帰ってくると「ほい。これ」と領収証を長島さんの机の上にぽんと置いた。
私はそれを見るなり、
「へぇ。あの先生でも食事を奢る事があるんですね」と感心していると、
長島さんがけたけた笑いながら
「あなたもホント、おめでたい人よね。そんな訳無いじゃない。お支払いは遠山さんにさせておいて領収証は先生が貰ったに決まっているでしょ。あなた今まで伝票整理してきたでしょ。その中に領収証のコピーとか見たこと無い?あれってね、先生が客に接待された時、領収証を貰ってくるじゃない。そして、客にはコピーを渡してるのよ。分かった?」
「・・・・・・」
私は、もう言葉が出なかった。

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